Our Story

パンと神戸屋の歴史

約1万年前に生まれたパンは、長い年月をかけて世界へと広がりました。日本に伝わったのは16世紀。
しかし、日本人の食卓に定着するまでには、さらに長い時間が必要でした。
大正7年に創業した神戸屋は、その歩みとともにパンの可能性を広げ、
食文化を育んできました。パンと神戸屋の歴史を、時代の流れとともにたどります。

01

パンのはじまり

メソポタミア〜エジプト、そしてヨーロッパへ

パンのはじまり

パンの起源は、約1万年前のメソポタミア地域といわれています。肥沃な三日月地帯と呼ばれるこの一帯では、野生の小麦の採取・栽培が行われ、パンの原型とされる無発酵の平焼きパン(フラットブレッド)が生まれました。
その後、小麦栽培とパンは古代エジプト(紀元前4000〜3000年頃)へと伝播しました。生地を放置したことで自然酵母が作用し、偶然生まれたのが、現在のパンに近いふんわりとした「発酵パン」でした。パン食が好まれ日常に広がった古代エジプトでは、小麦を石擦りする製粉技術も確立されました。サドルストーンと呼ばれる道具を用いた石擦り作業は非常に重労働だったといわれます。しかし、当時は砂や石などの異物を取り除くことが難しく、粉に混ざったまま焼かれることもありました。そのため古代エジプト人の歯は大きくすり減っており、歯の状態から年齢を推定できるといわれています。

ちなみに、現在ではパンといえばヨーロッパというイメージがありますが、パンづくりは地中海沿岸からギリシャを経てローマへと広がり、やがてヨーロッパ各地へと定着していきました。中世ヨーロッパでは、各地にパン職人たちが組織するギルドが生まれ、品質や価格が厳格に管理されるようになりました。さらに各地で特色あるパンが定着し、フランスパンやドイツパン、イギリスパンといったナショナルブレッドの原型が形づくられていきました。

02

鉄砲とパンの伝来

日本にやってきたパン

鉄砲とパンの伝来

日本にパンが伝来したのは、安土桃山時代です。1543年、種子島(鹿児島県)に漂着したポルトガル人によって鉄砲がもたらされましたが、実はこのとき、鉄砲とともにパンももたらされていました。
しかし当時は戦乱の世。織田信長によって鉄砲は大きく広がり、日本は世界有数の鉄砲保有国となりましたが、パンが広がることはありませんでした。戦国大名は戦ばかりをしていたわけではなく、自国を豊かにするために治水事業にも力を入れていました。その結果、農業は発展し、物資が安定していきます。米を中心とした食文化が安定していた日本では、馴染みのないパン食に頼る必要がなかったのです。

その後、明治の文明開化の時代には牛鍋などの西洋料理も広がっていきましたが、パンは一部の港町(神戸)や外国人居留地に限られ、広く一般に根づくことはありませんでした。日本人がパンを日常的に食べるようになるのは、それよりもずっと後、第二次世界大戦後のことです。

小麦と米、主食のかたちの違い

日本では、米を粒のまま炊いて食べる文化が長く育まれてきました。一方、小麦は外皮が硬く、粉にして加工することで食べやすくなる穀物です。こうした穀物の性質の違いも、米食文化が根づいた日本で、パンがすぐには広がらなかった理由の一つと考えられています。

03

神戸屋の夜明け

大正7年、大阪で神戸屋創業

神戸屋の夜明け

神戸屋が創業したのは、大正7(1918)年。大正デモクラシーの機運のなか、洋装や都市文化など、モダンな文化が広がりつつあった時代でした。
当時、パンはまだ多くの日本人にとってなじみのない高級品。製造の中心地は外国人が多く暮らす港町・神戸で、異人館周辺には外国人向けのパン屋が点在していました。創業者の桐山政太郎は、そんなパン屋の一軒で奉公していた若者でしたが、ちょうど大阪に外国人向けのホテルができ始め、まだパン屋のなかった大阪へ、神戸からパンを卸す仕事をしていました。
その後、外国人向けホテルの増加にともない、大阪ではパンの需要が徐々に高まっていきます。まだトラックもない時代、パンそのものを運んでいたのでは間に合わなくなり、政太郎は原料である小麦粉を運び、大阪でホテル向けのパン製造を始めました。それが、神戸屋のはじまりです。

神戸屋の名前の由来は、当時の神戸がパンの代名詞であったことから。神戸屋――すなわち「パン屋」。まだパンが珍しかった時代に、パンそのものを名乗る店として歩み始めたのです。そしてその歩みは、やがて日本のパン文化を形づくる礎となっていきます。

04

パンと出合った日本人

高級品から、学校給食へ

パンと出合った日本人

大阪での創業後、大阪のホテルや高級レストランを中心にパンを卸していた神戸屋。やがてその評判は皇族や富裕層に広がり、東京や横浜、鎌倉、葉山などにも届けられるようになりました。パンの普及にともない、政太郎は大阪に大規模なパン工場を建設。日本で初めて国産酵母を使用したパン製造に成功し、発酵を自社で安定的に管理できる体制を築きました。
そして第二次世界大戦後、食糧難の時代に、ついに日本人とパンの本格的な出合いが訪れます。飢えが広がる日本にアメリカから提供された小麦と脱脂粉乳。これらを用いたパンが学校給食として全国で出されるようになったのです。

この頃、神戸屋の2代目社長・桐山利三郎は、自社で培ってきたパン技術を公開する決断をします。寄宿制のパン技術指導所を立ち上げ、職人を育成。配給される小麦粉を使ってパンを作る技術を広めることで、日本人の食を支えようとしたのです。それは単なる事業拡大ではなく、「明日の食文化を開く」という利三郎の想いそのものでした。

神風号と1万個のサンドイッチ

1937(昭和12)年、日本初の国産長距離飛行機「神風号」の記念式典に、神戸屋はサンドイッチ1万個を納入した記録が残っています。まだ冷蔵設備も十分ではなかった時代、手作りでこれだけの数のサンドイッチを用意するのは簡単ではなかったはずです。神戸屋100周年にあたる2018年には、100周年記念サンドウヰッチ物語「熟成ロースハムサンド」として復刻販売も行いました。

05

食文化としてのパン

食パンが日本の朝の風景に

食文化としてのパン

戦後の苦境を経て、朝鮮動乱特需で巨大な外貨収入を得た日本は、高度経済成長期に突入します。利三郎は、それまでアメリカからの輸入小麦のほとんどを占めていた飼料用小麦に代わり、食用小麦の輸入交渉のためアメリカ政府関係機関へ赴きました。同時に、アメリカの製パン技術や連続生産の技術を学び、帰国後、日本で初めてパンの連続生産ラインを構築しました。また、昭和32(1957年)には自動包装機を取り入れ、アメリカ式の角型食パンの包装を機械化。テレビや映画を通じて広がったアメリカ文化への憧れも相まって、トースターの普及とともに、バターやジャムを塗った食パンが、日本の朝の風景として定着していきました。
その後、昭和50(1975)年には、日本初のベーカリーレストラン「神戸屋レストラン」を創業しました。朝食だけでなく、昼食や夕食にも料理とともにパンを楽しむ食文化を提案するために生まれた同レストランは、現在に至るまで50年以上にわたり、パンを中心とした食文化を育み続けています。

一方、大量生産の弊害ともいえる食品添加物の問題にも、神戸屋は向き合っていきます。きめ細やかでふんわりとしたパンを作るために世界中で使われてきた臭素酸カリウム(発がん性の疑いが指摘されていた)の使用を、昭和55(1980)年に全面的に停止。また、漂白小麦の不使用や、イーストフードや乳化剤をできる限り使用しない製品開発など、素材本来のおいしさを大切にしながら、効率よりも食品の安全性と品質を優先する方針へと舵を切っていきました。

06

第二の創業

原点回帰という挑戦

第二の創業

日本人がパンを知らなかった時代から、パンが食卓の当たり前になった現代にいたるまで、時代のうねりのなかで食文化としてのパンを提案し続けてきた神戸屋。そして令和4(2022)年、6代目社長・桐山晋が、「第二の創業」ともいわれる大きな決断をします。長年、神戸屋の事業を支えてきた袋パン事業からの撤退です。
効率を追求する機械化・大量生産による袋パン。一方で神戸屋は、創業者・政太郎の時代から粉からパンを作り上げるスクラッチベーカリーとして、パンの職人技術を高め続けてきました。事実、「クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・ブーランジェリー(パンの世界大会)」での日本代表の輩出や優勝など、神戸屋のパン職人の技術は世界でも認められています。神戸屋が培ってきたパン製造への深い造詣と技術を活かして、手作りを強みとするベーカリーへと原点回帰したのです。さらに、昭和48(1973)年から蓄積してきた冷凍生地の技術に、現代のテクノロジーを組み合わせた冷凍生地事業に改めて注力し、食品ロス問題の解決やパン業界のさらなる発展をめざす取り組みを行っています。

効率化や事業拡大路線からの撤退は、時代に逆行するようにも見えるかもしれません。しかしそれは、創業以来受け継がれてきた職人技と手作りの価値を改めて見つめ直す選択でもあります。飽くなきパンへの探究心と、100年後もあり続ける姿を見据えて、神戸屋は日本のパンの原点に立ち返り、次の100年に向けた挑戦を続けていきます。

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